エッセイ

野口整体は時代遅れか

州子が風邪の子供の操法をしている様子を横で見ていると、その子のお母さんにむかって「ここに愉気をしてあげてくださいね」などと言っていることがよくあります。

「何も知らない人に、いきなりずいぶんと難しいことをようきゅうするもんだな」と思ってしまうのですが、おかまいなしに州子は「お母さんならそれくらいできる」といつも言います(実際に驚くような効果をあげるお母さんは多いのですが)。

そして、僕も操法のときにセルフケアの仕方や体に起きていることの背景(本人が気づいていないだろうこと)を話していると、州子は横で聞きながら「操法しながら講義しちゃってるよ。話しすぎだよ」と思うらしいのです。

 確かに操法は沈黙のなかでこそ効果を発揮します。そうやって受ける人が静かに耳をすませるように何かを感じてくれることが大事です。

しかし僕たちは、操法を受けるひとにはいつも、つい何かを教えたくなってしまうのです。

それは僕たちが、「治してもらうのではなく、自力で良くなっていくのが本当だろう」と考えているからだと思います。

 

風邪のとき、苦しくとも本人はそれを乗り越えるつもりで頑張っている最中なのですが、そばで看病する人のほうがつらかったりします。不安でいっぱいになると乗り越えずに逃げる選択の誘惑を受けます。そのときにもとの道(苦しんで乗り越える過程)に戻してあげるのが、僕たちの健康指導です(不安は取り除きますが)。

つらいときに僕たちのところに来る人が求めているのは、「この苦しさをなんとかしてほしい」ということです。もちろん最良の結果(ただ症状が終わるのではなく、そのあと体が良い方向に変わっていく)に導くことをしていますが、大切なことは、僕たちが治したのではなく、自分で治ったような気になることだと思っています。

 

医療がこれだけ進歩しながら病人が減らないどころか増えている(異論のある人はいませんよね)のは、治療というものが、まず「病人の心」を作ってから治そうとするからです。

病院へ行く人を病人と言います。

病気であることを認めさせるから患者になります。

 

整体の創始者である野口晴哉先生は、晩年に治療という行為を捨ててしまいました。治してしまうことができたからこそ捨てることができたわけですが、なんでも治してしまうと人は良くならないのでやめてしまったというわけです。

もし僕たちに治療家としてのすごい実力があって(それを目指していないわけでは決してないのですが)、なんでも治してしまえるのだったら何も話すことはなくなってしまうでしょう。そして来てくださる方との関係性も一回きりで終わりです。

それは喩えるなら、道で出会ってものを尋ねられて答えて別れるすれ違いくらいの関係です。ありがたがられておわりです。

しかし、僕たちがやっていきたいのは、苦楽をともに感じながらも正しい方向に向かって同じ道をともに進むということです。とても体の悪い人が救いを求めて集まるのは僕たちの望む達成ではありません。元気な人が、より良くなることを目指して集まっているのが道場だと思うのです。僕は自分たちの道場がいつも元気な人であふれているように願っています。

自分が変わることが良くなることだということがわかっている人は、触れられただけで変わっていきます。しかし、自分を病人と認めてしまっていて誰かが治してくれるのを待っているだけの人を治すということは、そのことが変わるのでなければ僕たちの実力では「ほとんど無理」か「まったく不可能」のどちらかです。

昔、岡島瑞徳先生が、「野口先生が富士山の頂上にいるとして、自分もまだ道の途中で何合目にいるかわからないけれど、君たちに道を指し示すガイドはできる」と言っていました。まだどんなに低いところにいるとしても、道を見つけてそこを登っているのと、樹海でウロウロさまよっているのとではまったく違うことなのだと。

 

当時の僕はまったくその通りで、必死にもがくのですが、浮くか沈むかどちらに向かっているのかさえもわからず暗闇から出られない時代に長くいました。「流れ」というものがあることを知らなかったからです。あのとき整体に出会わなかった自分を想像するとちょっと寒気がします。

いまは亡くなってしまった師匠達から残された講義録をめくりながら、自分の未熟さとこの先の

遥かな道程を思って目を閉じます。でもため息をついて途方にくれることはありません。なにをしていけばいいかが明らかだからです。

 

僕たちに残された講義録は楽譜です。楽譜からはそれを演奏するためにどれだけの演奏能力が必要とされているかも読み取れるので、いまのままの自分ではダメだということがわかります。自分が道の途中のどの位置にいるのかもわかります。自分になにが欠けていてなにが必要なのかもわかります。

道が正しければ必ず登っていけます。自分では気がつかないほど少しずつですが、演奏能力は向上していて年々違った音楽が聴こえてきています。それが長い道程を目指す未熟者の慰めです。

 

僕たちがその道を見失わないようにしながら、なんとか皆さんとともに歩むつもりでやっているのが講座と稽古です。音楽でいえば、講座の知識が楽譜なら、稽古は演奏能力を高めることです。そして言ってしまえば、操法は、きちんと音楽が鳴っているかのチェックです。

ひとの生きかたによって紡ぎ出されるものが音楽なら、それが周りの人に気持ち良く響いていることが調和です。自分の音楽を聴いて、何が必要なのか(何が欠けているか)を考えていきましょう。

 

岡島先生は、各自が自らを積極的に整える「創体」という着想で方法を展開していました。これも治すことをやめることです。

僕たちはもちろん「どうしたら治せるようになるのか」という模索のなかにありますが、本当に興味があるのは「人類と文明が良き方向に向かって進化し続けたら、数百年後の未来の体と習慣はどうなっているのか」ということです。野口先生は、「整体が本当に理解されるのは数百年先だろう」と言い遺して亡くなっています。時代を先取りしすぎた思想は世間が追いつくのを待たなくてはなりません。

僕は、整体の求める理想は、過去にあったことを懐かしむのではなくて、未来のなかに探して見つけだして創り出すものだと思うのです。

世間の一般認識では整体は過去のものです。医療は現代科学の最先端の技術で、整体は武術的な勘に頼った古い概念だというところでしょう。

現在の薬漬けの医療がこのさき数百年続くとはとても思えませんが、それを批判することにエネルギーを向けてもしょうがないかなと思います。

そんなことより、必死でやっていきたいのは未来のロールモデルをみつけることです。昔、手塚治虫さんが漫画に描いた通りに都市が成長していったように、イメージが提示されれば世間はその通りになっていきます。

新しいイメージを提示するということは、世間とは違うことをすることですから批判されて当たり前です。でも批判されながら、その後のミュージックシーンを変えてしまったボブ・ディランのように、新しいところを切り開いていく静かで強いエネルギーとともに、ぼんやりとしか見えていない未来の姿を形にしていくことができないのだったら整体なんかやっている意味がないと思うのです。僕はボブ・ディランになりたいのです。

 

真摯な姿勢で熱心に操法を受け続けてくださる方にはこちらもつい夢中になって話してしまいますが、沈黙の中の操法もやはりいいものです(これこそ僕の課題なのですが)。

僕が本当に伝えたいことは講座と稽古の中でお話ししています。