エッセイ

人が内面に向かう時

夜中にかかってくる種類の電話というものがあります。

かけてきた人は、家族間のいさかいや辛い出来事があったり生理痛や腰の痛みに耐えきれなくて電話をしてしまったと言いますが、ありえない時間にかかってくることが尋常ではない辛さを物語っています。

そういう時はしばらく相手の話を聞きます。誰でも話していれば心が落ち着くものです。話している間に心の状態は変化していきます。

そして、気が済めば電話を切ることができます。話すことが終わったから電話を切るのではなく、鬱滞していたエネルギーの整理がついたから話が終わるのです。

自分のことをしっかり見ることができる人なら、話している間に自分の中から痛みがなくなっていくことに気がつくものです。

「どうしたんでしょう。さっきまであんなに痛かったのに話しているうちに痛みがなくなってきました」と不思議がりますが、僕が何かをしたわけではなく自分の心がきちんとしただけだということが理解できれば、もう、いつでもそこへ戻れます。

 

こういうことは道場で座っている間にも起こります。

「あんなに痛かったのに、操法の順番を待っている間に痛みがなくなってしまいました」というのはよくあることです。

「自宅で心を落ち着けようといろんなことをやってみてもうまくいかないけれど、ここへきて座っているだけで整うのはなぜでしょう」といって、その違いを必死に探している人もいます。

そういう人には「操法をやっている時間に道場に来て座っていていいよ」と言っています。彼女たち(多くが女性です)は、なにか辛いことがあったりイライラしたりしてどうにも治まらなくなると道場にやって来ては、目を閉じて気がすむまでただ座って過ごしています。

はたから見れば、ただ座っているだけですが本人たちはものすごく積極的な模索の真っ最中なのです。

 

人は、体の痛みなどの外面的なことから、心の内面へと関心が移り変わる時期があります。こういった変化の経験こそが操法の目的です。

操法をしていって体が変わったからこそ内側から出てくる感情があります。そういった感情の変動や心の問題は個人的なもので、ひとりひとり違うものだと思われていますが、そうではありません。僕は先日、同じ日にかかってきた3本の相談の電話に同じ話をして答えてみましたが、みんな納得してくれることがわかりました。表面的な出来事は別々でも心に感じていることは同じだということです。

 

以前は、こういった話は個人的な相談の時に話すだけだったのですが、それでは少数の限られた人にかかりきりになってしまっています。しかし、ここ数年で加速度的にこの話を求める人が現れてくるようになってきたので講座のなかでお話ししていくことにしました。

自分自身の経験がない人にはわかりづらいかもしれませんし、こういうことがピンと来るには、その人にとっての適切な時期というものがあります。それは意識で望んでも訪れないのですが、そのときが来た人にとっては心の奥にしまってあった箱のフタが開いてしまって中から勝手にいろんなものが出てきてしまう感じです。そうなるともう濁流の中を浮かんだり沈んだりしながら必死でもがくほかはありません。大変だけどしょうがないのです。

自分の内面を覗いたことがない人というのは、安全な岸辺に立って濁流を眺めているようなものです。

岸から眺めているひとにとっては、溺れている人のことは「だらしない」とか「社会不適合者だ」などと思えてしまいます。

野口整体の指導の指針には、溺れている人を助けることだけではなく、眺めている人を濁流に飛び込ませるということが含まれています。講座や稽古というものは濁流の中でも溺れずに向こう岸まで泳ぎきるためのものです。

 

「私にはまだその時期が来ない」と思っている人がいたら、近くで溺れている人(必ず近くにいます)を見つけて、「どうしたんですか」「大丈夫ですか」と声をかけてみてください。

その言葉が本気で言えたとき、あなたはきっとその人と同じ濁流の中にいます。