エッセイ

整体道場の日々

昨年末は、最後の仕事の日(穴追い大会と交流会)の前日に、和歌山の義母が危篤という知らせを受けました。忘年会を終わらせてすぐに和歌山へ向かいました。そんなことで正月らしいものはなかったのですが、常に誰かが死に向かい、誰かが産まれようとしているのが僕たちの道場の日常です。日常的に生命に関する喜びと悲しみがあって、これは実に濃厚な毎日です。

 

誕生と死は分かりやすい形で生命の営みを示してくれますが、目に見えなくとも、人は自分が死ぬことと子孫を残すことに向かって毎日歩んでいます。

それは道場に集う人たちの毎日の様子にも垣間見ることができます。

 

僕はいつも操法をしている場所から順番を待っている人たちの様子を眺めていますが、実はこの風景こそが皆さんに見て知っていただきたいものなのです

 

子供を出産して助産院から退院した足で愉気を受けに来たお母さんは、赤ちゃんを抱きながらともに明るい光と希望と喜びに包まれています。そうかと思うと、歳を重ねて人生の終わりかたに向き合うために愉気を受けに来る人もいます。

元気な子供がお母さんに絵本を読んでもらっているのを、横たわったままじっと体の痛みに耐えながら聞いている人がいたりします。

高熱を出して喘いでる子供を抱きしめている若いお母さんがいます。

「クスリを使うことを避けてきたけれど、今回の症状はそんなことは言ってられないのかしら」という葛藤に苦しんでいます。その若いお母さんを、ちょっと年配のご婦人がとなりで静かに見守っています。「私も最初の子育てのときはあんなふうに心配ばかりしていたなあ」とそのご婦人は自分の若い頃を思い出しているだけなのですが、じっと見守っているうちに二人の呼吸が揃ってきます。すると会話はなにもないのですが、若いお母さんから不安が消えていく様子が僕の目には映ります。二人ともそんなことが起きているとは知りません。

喜びと苦しみが混在しながらともに日常を歩んでいるのが道場としての健全な姿だと思います。

 

元気な子供に愉気をすることができるのは、もちろん僕たちにとっておおきな悦びを感じる瞬間です。

そして、病や苦悩にある人と向き合うのは僕たちにとっても辛いことです。しかし、その人たちが体の奥から眠っていた力を呼び起こして体が変わる瞬間は、凝縮された生命の輝きに満ちています。

生きる力を発揮する瞬間の姿は美しくて、でも、元気な人でも、それは一瞬で終わってしまいます。

気と呼ばれるものは、一瞬だけ立ち上がって、そのあとは儚く消えていくものです。

消えていくからこそ、また、新しいものが立ち上がってくるのです。生命とは、この連鎖のことです。

 

 

僕の娘たちがおとなになって整体の仕事を手伝ってくれるようになってきたとき、何もしないでただこの様子を眺めているように言いました。彼女たちは道場の隅っこで一年くらい毎日朝から晩までただ座って、来る人が泣いたり笑ったりするのをじっと見てきました。

それを見てきた彼女たちは、人は必ず良くなっていくことができるものだという確信をいまでは持っています。

 

道場の毎日は奇跡の集合体です。

肉親の死や家族の病、そして誕生。これらはひとりの人生で起きる回数は稀です。何度も経験できることではないため、感情のベールに包まれてしまって本質にたどり着かないのです。

しかし、この道場ではある程度の数がまとまって毎日起こっています。

数がまとまることで見えてくるものがあります。自分の見たものをどうやって人に伝えていくかが目下の僕の課題です。そこだけ取り出して人に見せることもできないし、大勢の人に押しかけられたら消えてしまうほど儚いものです。

いつも言ってることですが、道場というのは「治ったら終わり」ではありません。