エッセイ

メルセデスベンツとトラバント

ずっとトライアルという競技をやっていましたが、最初の選手生命の危機は25歳の時にやってきました。

オートバイと一緒に崖から落ちたり地面に叩きつけられたり、打撲や骨折を繰り返していた僕の体は、なんの前兆もなくある日の朝から突然動かなくなりました。

ベッドから起き上がろうとするのですが体が全く動かないのです。これが金縛りというものなのだろうかなどと思いましたがそうでもないらしく、わけのわからないまま数日が過ぎました。

一週間ほどで体が動き始めたのですが、腰の痛みは消えませんでした。

どうすればいいのかわからないので、とりあえず近所の整形外科に行ってみました。診察ではレントゲンを撮って調べたけれど納得のいく説明は得られず湿布薬が出ただけでした。

「ひどい先生だね」

腹を立てた僕は受付の女の子にそう言い残して帰りました。きちんと診てもらえなかったと感じたからです。何も知らなかったので、病院に行けば腰痛は治してくれるものだと思っていました。

しかし、その後、別の整形外科やもっと大きな総合病院にも行ってみましたが、診断内容はどこでも同じでした。自分の腰が本当にひどくて手がつけられないと言われているのだということがようやく理解できました。

西洋医学からサジを投げられたので、怪しげな療術家の元を転々とした時期もありましたが(この頃の僕には野口整体と出会うことはできなかった)、そんな自分に嫌気がさして、ある時「自分の体は自分で創っていけばいいんだ」ということに気がつきました。

 

「腰が治らないと選手として復帰できない」と思っていたのですが、治ることが必然であるように目標を変えてトレーニングをしようと思いました。それまでの目標だった全日本選手権を諦めて、イギリスのSSDT(スコッティシュ・シックス・デイズ・トライアル)に目標を変えたのです。それは、マラソンの経験がないのにトライアスロンに挑戦するような感じでした。SSDTはそれくらい途方もない距離を走るのです。なぜそんなことを思いついたのかはわかりませんが、思い込みが作っている自分の限界を破ることで腰を変えていくというやり方は、いま考えてみるとそう悪くなかったと思います。腰のあり方は心の持ち方と関係あるからです。

しかし、僕のライセンスでは国際大会には出られないという規則がありました。それでも出るならもう全日本選手権には戻れないという通達が日本のフィデレーションからありましたが、僕はそれでもいいと思いました。そう決めて日本のライセンスを失うと、入れ替わりにイタリア、ミラノの伝統あるモーターサイクル・クラブが僕の身元を引き受けてライセンスを発行してくれました。事態が開けていく予感がしました。

 

それまでもいろいろトレーニングはしていたのですが、SSDTに向けて全てを長距離向けにアレンジし直しました。安直でしたがトライアスロンのチャンピオンだったデイブ・スコットの本を買ってきてトライアスロンのトレーニングをそのまましていました。筑波山や高尾山などの近郊の山に出かけては頂上まで駆け上っては駆け下りたり、当時のトレーニング日誌をいま見ると毎日こんなに走ったり泳いだりしていたのかと驚くばかりです。

筋力をつけるトレーニングは最も力を入れていたところです。当時の自分が信用していたトレーナーの元で最新の設備を使って時間とお金をかけたマシントレーニングをしていました。筋肉が増えてくると体が軽く感じられるようになって、腰の調子は確実に良くなっていきました。

 

腰を壊したことで全日本選手権を諦めたのですが、腰を壊さなかったらスコットランドに行くこともなかったかもしれません。腰の故障は、自分の体と向き合うきっかけになり、SSDTを走るという目的はハードなトレーニングにも本気で向き合わせてくれました。

しかし、目的のためのトレーニングは目的を達成した後は続きません。

SSDTから帰ってきてからの僕には、もうハードなトレーニングをする理由がなくなってしまったのです。トレーニングをして体を創るということの根底にはしっかりと地に足のついたコンセプトがないと、それは本来の自分自身とは違うものを創り出してしまいます。

筋力が落ちてくると腰痛はまたやってきました。筋肉が補助してくれていただけで腰が治っていたわけではなかったのです。

自分のあり方に疑問を持ったまま答えを求めて今度はトライアルの本場であるヨーロッパに出かけました。

 

世界選手権トライアルはヨーロッパを転戦するのですが、その開催国には東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアといった東側諸国が含まれていました。トライアルをやっていなかったらこういった国々に訪れる機会はなかったと思います。僕が訪れたのは1988年から90年まででしたが、89年にベルリンの壁の崩壊があってその前後の様子を目の当たりにすることになりました。これは本当に貴重な経験でした。

当時の東ドイツには「トラバント」という小型車が走っていました。

東ドイツではよく見かけましたが、街道を走っている姿よりも故障して放置されたり、オーバーヒートして立ち往生したり炎上してしまっている姿のほうが記憶に残っています。そのボディはボール紙でできていると言われていました。実際はプラスチックだったらしいのですが、そのくらい柔らかくてもろかったのです。

壁があった時代には、羊飼いが先導する羊の群れや馬車と一緒に車が走っている風景の中でのトラバントはいい車でした。しかし、壁がなくなった1990年にドイツで見たトラバントは居場所を失おうとしていました。西側の頑丈な車と同じ道路を走ることには問題がありました。

昔、どこかの自動車メーカーが、衝突しても中の乗員に怪我がないような頑丈な車を作ろうと試みたことがありましたが実用にならなかったそうです。そんな車が他の車と衝突したら自分が助かる代わりに相手の車の乗員がみんな死んでしまうからなのですが、実験してみて初めてそのことに気がついたそうです。

壁がなくなった直後のドイツで僕は、メルセデスベンツとトラバントの衝突を目撃したのですが、それはまさにこの通りのことでした。低速での軽い接触で、メルセデスは無傷でしたがトラバントの方はボディ全体がまるで紙を丸めたようにくしゃくしゃになってもう走れなくなっていました。

 

それまでの僕なら、もっと自分を鍛えて強くならないとあのトラバントのようなことになってしまうと考えたはずなのですが、それよりも無傷で立ち去ったメルセデスベンツには、つぶされたトラバントの気持ちはわからなかったのだろうと思ったのです。それより僕はトラバントになりたいと思いました。これは今までにはなかった不思議な感覚でした。

相手を傷つけているのに自分が傷つかないということは相手の気持ちがわからないことなのに、相手とぶつかっても自分が傷つかない側に回るために自分の体を鍛えて強くなろうとしていたのだと思えるようになってしまいました。

この事故の目撃はトレーニングによる自分の体の創り方を見直すきっかけになっただけでなく、何かを暗示している象徴のように思えて鮮明に記憶に残りました。

 

その年を最後に、トライアルはもうやめてしまいました。農業をしながら暮らそうと思って岩手に土地を探し始めた時に、野口整体の師匠である岡島瑞徳先生と出会いました。

それまで大切だと思っていたものを手放すことでもっと大切なものに出会えるということを、このときも経験しました。

 

岡島先生から最初に操法を受けた時の憐れむような眼差しが今でも忘れられません。それまでどんな整体や療術を受けたときでも僕のアスリートのような肉体は歓迎されてきたのですが、ここではまったく違いました。

あの眼差しは僕の体についた筋肉に向けられたものでした。自分が何かに怯えながらそれを繕うために体を鍛えてきたのだということをその目が自覚させてくれました。

弟子入りしてからは、こんな筋肉はここでは何の役にも立たないということを稽古の中でみっちりと教えられました。

「強すぎる筋肉が邪魔しているから君は相手の体の中に起きていることがわからないんだよ」となんども言われました。

僕が昔やっていた筋肉を鍛えるトレーニングが何かを手に入れるための方法だとしたら、岡島先生から受けた稽古は、何かを手放すためのものだったと言えます。

「トラバントの気持ちがわかりたい」などという甘い言葉を吐くこともなく、人の気持ちを理解するためにずっと昔から修行していた先人がいることを知らされました。

 

整体道場での朝から夜まで食事もとらず10時間以上も続く稽古は、どこまで死にかけることができるかということが目的だったようにも思えます。自分の力を使い果たしたときにだけ自分の中心から新しく生まれ出てくるものこそが自分が使うことのできる本当の力です。弱くなり切ったときにだけ相手と繋がることができることを教わったのだと思います。

 

現在の僕は毎日のように打撲の子供を見ています。今週も車にぶつけられた子を何人か観ましたが、打撲を観るときは、ぶつけられた側の気持ちになれないとわからないものがあります。

 

自分が相手より強かったら相手のことはわからず、相手より弱いだけだったら何もしてあげることができません。では、どうあればいいのかをわかろうとしていくことが野口整体なのだと思います。