エッセイ

イニシエーション

我が家では、数年前から猫の兄弟を飼っています。

仔猫のうちはどちらも可愛くて人によくなついていましたが、成長して大人の猫になろうとしてくるとそれぞれに「手に負えないヤンチャな猫」と「聞き分けのいい良い子の猫」という個性が出てきました。

ヤンチャなフーは、夜になるとどこかへ出かけていってはよその猫と喧嘩して朝になると生傷だらけで帰ってくるのが日課になり、そのうち数日帰ってこないことも珍しくなくなってきました。心配するのに疲れて、おとなしい方のラムに「もうお前だけがいてくれればいいよ」と語りかけたりしたこともありました。

「良い子」のラムは、窓が開いていても外に出ようとせず、縁側からじっと外の世界を眺めては僕達の帰りを待っているような猫でした。夜は食事のときも寝るときも僕たちのそばを離れませんでした。

そのラムがあるとき、何を思ったか突然いなくなってしまいました。「何か起きたな」と思い始めた三日目に近所の人が道路で轢かれているのを見つけて知らせてくれました。案内されて引き取りに行ったとき、その場所が見通しのいいことに愕然としました。こんな道路が渡れないほど世間知らずな猫に育ててしまったのです。

うちから猫がみんないなくなってしまった気がして僕たちが落ち込んでいると、フーが寄り添って来るようになりました。

フーには以前からこういうところがありました。

普段は元気な子供が来るとすぐに逃げてしまうのですが、母親に叱られて激しく泣いているよその子供を預かったりすると、泣き疲れて寝てしまったその子を見守るようにぴったり寄り添って一緒にいる姿を何度も見かけています。

うちに迷い込んできた仔猫の面倒を見たり、人間を気遣ったり、家の中でのそういう特別な役割を得て、ヤンチャだったフーもとても落ち着いてきたように思えます。

しかし、毎夜の縄張りの見張りは欠かせないらしく生傷は今も絶えません。

明け方に帰ってきて雨戸を叩くので開けてあげると、深傷を負って血だらけのことがありました。フーは迷わず僕の膝に乗ってきて目を細めてジッと抱かれます。元気のいいときには僕のことなど見向きもしないのですが、こういうことはちゃんと知っているのです。そして傷が癒えてくるとまた元気に外に喧嘩しに行ってしまいます。

人の世界と猫の世界を自由に行き来できる、自立した猫らしい猫になってきたなと思います。

大人の猫になるための試練をくぐり抜けることに成功したのは聞き分けのよくないと思っていたヤンチャなフーの方でした。

 

大人になるための試練は過酷です。試練を乗り越えることに失敗すると命を落とす危険さえあるのは人間も猫も同じです。

しかし、賢く立ち回りたい現代人はリスクが嫌いです。試練を避けて通ろうと考える人ばかりで、昔は子供が大人になるために必要だったイニシエーションはいま世界中で消滅しています。

子供が世間に溶け込むための変化を促すイニシエーションの代わりに、社会に参加する条件として幅を効かせるようになったのが学歴と資格ですが、本当の意味での人との関係を築くためにはこんなものは全然なんの役にも立ちません。

以前、「30歳を過ぎてもまだ就職できないんです」という男性に、「仕事の基本は人の役に立つことだろう。困っている人を見つけて自分の手と足を使ってその人に喜んでもらえることから始めればいいのではないか」と話したところ、「自分は大学院を出て博士号も持っているので、そんなつまらないことをするわけにはいかないんです」という答えが帰ってきました。イニシエーションを経験しないで未熟なまま大人になってしまった姿がこれです。

どこでどう間違ったのかは知りませんが、整体操法をしていると、こういった「幼稚な成人」が目についてしまいます。しかし、苦言を申し上げる暇もなくすぐに来なくなってしまいます。

整体操法は自分を変えるつもりがなく子供でいたい人には必要のないものだからです。

 

このことに関して僕たちができることといえば、まだ年端のいかない幼児や小学生に対して大人と同じように(それ以上に)真剣に操法をするということです。すると、いつもお母さんの懐に逃げ込んで甘えてばかりいた子もいつの間にか自分からきちんと正座して操法の順番を待つようになります。これが心の成長であり、思春期になれば訪れる試練に逃げずに向き合うための準備と言えます。