エッセイ

治療院ではなく、道場を作っていくということ

海外旅行中に階段で転んでひどい打撲をした人がいました。

ちょうど運良く理学療法士の人がその場に居合わせて応急処置をしてもらったそうですが、その時に、「エネルギーを流してくれる人の心当たりはある?」と聞かれたそうです。

その人は、「愉気のことだな」とすぐにピンときたようで、帰国直後に操法を受けに来てくれたので愉気をしました。

僕たちは、打撲には愉気しかないと思っています。

腫れたところに消炎剤を湿布をしても炎症が抑えられるだけで打撲のダメージが良くなるわけではないし、何より炎症を冷やして鎮めてしまうと治った後も調子が悪いのです。その理学療法士の人も経験的に打撲の場合の物理療法の限界を知っていたのだと思います。

「エネルギーを流す」という普通はしない言い回しが、気の調整による治癒を経験済みであることを物語っています。

 

一般に、「気で治す」などと言われていますが、打撲に愉気をするということは、打撲をしたケガそのものを気で治すということではありません。

打撲をした場所は、衝撃を受けたために本来のエネルギーの流れが止まってしまっています。エネルギーの流れが秩序を失って混乱しているということです。

行き場がなくなって溜まってしまったエネルギーを体外に放出してあげることで流れを回復させて全体の秩序を取り戻すのが愉気です。

傷を受けた体が秩序を取り戻した時に自然治癒力というものが働き出します。それで治るのです。

愉気が直接傷を治すのではなく、愉気は自然治癒力を導くだけです。

 

治療をする人が「エネルギーを流せば良くなる」ということを知ったなら、自分で手を当てればよさそうなものですが、治療という行為に携わっていると気の感応が起きにくい手になっていくのも事実です。治療というものは外からの働きかけですが、自然治癒力というものは内側から育つことしかできないからです。それを治してあげるつもりで外からやっても相手の気の流れを乱してしまうだけなのです。

人を治そうとばかりしていると気はなくなってしまうということに気づいている人はあまりいません。自然治癒力というものは、治療をしないでも治ることを信じている心が導くものなのです。