エッセイ
友達を叩かせていたもの
5歳のケンちゃんは、いつも保育園で友達に煙たがられていました。
仲良く遊んでいても、おもちゃを独占してしまったり友達の嫌がることをどうしてもしてしまいます。そしていつも最後は友達を叩いてしまって先生に叱られていました。
いくら言い聞かせても友達を叩いてしまうことがやめられません。
ご両親は心配して「どうしたら友達に手を出さないようになりますか」と聞いてきましたが、ケンちゃんの体を見るとどうも不満がたまって膨れています。叩くことをムリにやめさせたらもっと膨れるだけです。それは根本的な解決にはなりません。
友達を叩いてしまうのは、乱暴なのでも強いからでもありません。弱くて寂しいからです。
ケンちゃんに必要なのは、自分の要求通りにエネルギーが発散できる心の自由です。
エネルギーの行き場がないから、友達を叩くという形で発散することしかできないのです。
毎日の生活のなかで、ケンちゃんのエネルギーをきちんと真剣に受け止めてくれている人がいないのだと思いました。
「一度おもいきり好きなようにさせてあげたらどうですか」と聞くと、お母さんは「そんなことをしたら大変なことになってしまいます」と答えます。
甘やかすことなんてできないと思っているお母さんの、心の不安がケンちゃんを縛っている気がしてきました。
ケンちゃんの体よりお母さんの心の方が救済が必要だったみたいです。お母さんとじっくり話すことが操法の中心になりましたが、あなたの不安が原因だとか直接言ってしまうと拒絶が起きるだけなので、
「ケンちゃんの体は大分ゆるむようになってきましたから、たぶんこの先で風邪になると思います。体調が変わったら電話をください」とだけ言っておきました。
(不満のようなものが溜まっていた体をゆるめていくと、そのあとで風邪になることがよくあります。みかけは風邪ですが、体にとってはそれまで溜まっていたものを吐き出すチャンスです)
しばらくして、ケンちゃんが熱を出して保育園から帰されてきた、と連絡が入りました。
僕は、「風邪のことは心配しなくていいから、できるだけやさしくしてあげてください」と伝えました。ちょっとサービスして具体的なやり方と語りかけ方も伝授しておきました。
そこがうまくできたら、これから起きることはとても大切なことです。
翌朝、ケンちゃんはまだ熱がありました。
いつもと同じ時間に目は覚めたけど、布団の中にいてもお母さんはなにも言いません。いつもなら歯を磨きなさい、ご飯を食べなさいって保育園に行くまでにいっぱいせかされるのに。
「今日はお母さんもお仕事お休みにしたからね」
ゆっくり寝ていなさいって言われてしばらく布団の中にいたけど、もう寝ていたくないので起きました。
朝ごはんでもお昼ご飯でもない時間にお母さんが作ってくれたご飯を食べるのは、なんだか不思議な気分でした。
猫が来たので自分の食器でミルクをあげました。いつもは叱られることのに、お母さんはそれを見てもなにも言いませんでした。
午後になってお母さんは、「買い物に行ってくるけどなにか欲しいものある?」と聞いてきました。いつもだったら「ダメ」と言われるものを頼んでもいいような気がしたので、思いきって「メロン!」と言ってみました。
「それだけでいいの?」と言われてびっくりしました。
いつもなら「ひとつだけにしなさい」って言われるのに。
夜になると熱が上がってきました。熱は平気だったけど、お腹が痛くなりました。お母さんはお腹に手を当ててくれました。
風邪は治ったほうがいいけれど、それよりも、お母さんがずっとこうしてくれたらいいなと思いました。
「おかあさん、明日もこうしていてくれるの?」と思っていたら眠ってしまいました。
ところが翌朝、いつもよりずっと遅い時間に目が覚めたらお母さんは仕事に行ってしまってもういませんでした。
「お昼には帰りますからゆっくり寝ていてね」という書き置きが枕元にありました。
「一緒にいてくれるってあんなに約束したのに」
お昼休みに、様子を見に帰ってきたお母さんを見て、ケンちゃんは怒りました。
お母さんに抱っこされながら、ケンちゃんは「バカバカ」と叫んで泣きながらお母さんを叩きました。
お母さんは「ごめんね」とあやまりながら、ケンちゃんの熱が下がったのでもう大丈夫だと思って出かけたことと約束してはいなかったことを説明しました。
それを聞くとケンちゃんは火がついたように怒り出して、今度はもっと強くお母さんの胸を叩き続けました。
それは夕方お父さんが帰って来ても続いていました。
お父さんはしばらく二人の様子を眺めていましたが、
「わかったから、ケンちゃん、もうわかったからね」と言ってなんとかなだめようとしているお母さんに、
「わかったとばかり言っているけど、君はまだケンの言っていることをわかってないんじゃないかな」と言いました。
「君が思っていることをケンにわからせようとするのはもうやめて、ケンが思っているけど説明できないことがなにかを君が考えてみたらいいんじゃないかな、本気でさ」
お母さんは、一昨日からケンちゃんにやさしくしようと思って自分がやってきたことを振り返ってみました。それは自分が子供の頃に親にして欲しかったのにしてもらえなかったことをやっていたのだと思いました。
自分の子供の頃を思い出すと、ケンちゃんがなにを言いいたかったのかが少しわかるような気がしました。それはきっと自分が子供の時に思っていたこととなにも違わないのだと思いました。
そして、今朝は風邪が治ったのでやさしくするのも終わらせてしまいましたが、ケンちゃんには風邪のことなんてどうでもよくて、求めていたのはずっと前からお母さんにやさしくされることだということがわかりました。
ケンちゃんが思っていることを考えているうちに、いままで必死でなんとかしようと頑張ってきたお母さんの力が抜けました。
ふたりの間にいつもあったのは、お母さんからケンちゃんに向かって注がれていた、ケンちゃんを縛るように包み込んでいた力でした。
それが消えて、今度は逆にケンちゃんの体表から出ているモヤモヤしたものを、お母さんが皮膚から吸い込むように受け入れ始めました。
ふたりの間の気の流れが変わった瞬間の変化は、隣で見ていたお父さんにもわかりました。
それを見たお父さんは、お母さんがケンちゃんのことを理解したのだと思いました。
どんなに叩き続けても開かなかったドアが突然開きました。
いままでずっと叩いていたものが突然なくなって、ケンちゃんはびっくりしました。
そこから出たくて叩き続けてきたけれど、開いたドアの先にあった場所もやっぱり心もとないところで、ひとりではどうしたらいいのかわかりませんでした。
そこへお母さんの「ごめんね」という声が聞こえました。何度も聞いたことのある言葉だったけれど、自分に向かって言ってもらったのはこれが初めてのような気がしました。
やっとお母さんが自分のところまで降りてきてくれたのだと思いました。