エッセイ

整体は宗教か?

整体操法を受けている人が、その様子を人に話したら「それは宗教ではないのか」と言われてしまったという報告がありました。ありそうな話です。しかし、ひとの体に関して科学的に証明できないことをやっていたり、科学を元に出来上がった一般常識とは違うことを言っているからといって、科学的ではない、だから宗教だというのはあまりに短絡的だと思います。

そういう考えのひとは、起きていることを自分の能力で認識判断していない(もしくはできない)のが原因です。自分自身で判断できないから「信じる」「信じない」が争点になるのです。科学で証明できない領域にこそ自分自身の判断が必要です。

 

初めて僕たちのところへやってくる人の多くは、他の会員の誰かに紹介されてやって来るため、「はじめから信じている人」と「半信半疑の人」がいます。いずれもその根拠はあやふやです。それに僕たちのやっていることをひとに紹介するとき、ほとんどのひとが「どう説明すればいいのかわからないけど騙されたと思って行ってみて」と言っているようです(困ったことですね。皆さんもっと勉強してください)。

実際のところ操法を受けるのに、「信じている、信じてない」はあまり関係ありません。なぜなら、信じて受けているのに体の反応が鈍くてなにも変化が起こらない人もいますし、信じてないのに体が反応してしまうひともいます。それから、からだが変化しているのに、感覚が鈍くてそれを知覚できないこともあります。

「はじめから信じている」という態度も、自分の判断を鈍らせてしまいます。

起きている変化をはっきりと知覚できるひとにとっては、体の変化はただの事実なので、「信じる」「信じない」という話ではなく、事実の観察があるだけです。

 

つまり、「信じるか、信じないか」などということは、しょせんは自我が作る思い込みにすぎません。

僕たちのことを信じているという人には、信じることをやめて自立できるように誘導していきます。僕は、「僕のことを信じていれば救われます」とは絶対に言っていません。これが宗教と違う点かもしれません。「かたく信じている」ことは、純粋に知覚し理解することの妨げにしかならないからです。思い込みを捨てることで自己を明らかにしていくことにしか意味はないのです。

講座や稽古をして気の流れを良い体と気の流れを感じとることのできる感覚を作る目的は、起きている事実を自分で認識するためです。僕たちの手助けが必要なくなるためです。

 

 

お母さんに半ばムリヤリ愉気を受けに連れて来られた高校生の女の子がいました。

玄関先に来てもなお「なんで私が整体なんて年寄りくさいものを受けなきゃならないのよ」と親子で言い争いをしています(ひどい偏見ですね)。

ずっと体調が悪いのに病院で検査してもらっても何も異常は見つからず、それなのに検査のたびに大量のクスリを処方されることにたまりかねたお母さんが、「わらにもすがる思いでここへ連れてきました」と言っていました(これもひどいけど、まあいいか)。

その子を見て感じた第一印象は「こんなのを受けるよりもっと大事なことがあるのに」とでもいいたそうな不満の感情です。

彼女が感じている不満は、「病院の検査でわからないなら、もっと大きな病院で、もっと精密な検査とかをしてくれるべきなのに、いったいこの時代遅れの整体ってなんなのよ」ということのようでした。

 

実を言うと僕はこういうケースがけっこう好きです(得意ということです)。

彼女は自分の不満を満たしてくれるものは、もっと大きな病院の最新設備などにあると思ってそれを期待していました。若すぎて、「テクノロジーに頼ると人の心はますます孤立していくだけだ」ということをまだ知らないようでした。

順番を待つあいだに前の人が操法を受けている様子を見て、

「お母さん、あのひと腰が痛いって言っているのに頭ばかりいじっているよ。ほんとうにこんなの受けて大丈夫なの?」といぶかしがる彼女の声が聞こえます。

自分の順番が来ると、不平を並べながらも彼女はうつ伏せになってくれました。文句を言われながらやるのは気が進まないのですが、背中に手を当ててみるとそんな気持ちは一瞬で吹きとんでしまいました。言葉とは裏腹に、彼女の背中は手で触れられることを求めていたからです。それもとても強く。こちらが手を当てるというより、手が勝手に引き寄せられてしまう感じです。腰に当てた手が動きません。吸い寄せられるように腰に手が行って、腰が手を離さないという感じです。

彼女はそれまで自分に起きていることがよくわからず、だからそれを言葉にして他人にわかってもらうこともできず、だけど何かを求めて必死で助けを求めていたのだと思います。それまでの彼女の振る舞いや言葉を彼女の本心だと思って鵜呑みにしていると、いくら話しても何もわかりませんが、触れればわかることはあります。彼女は本当に辛かったようです。

しばらく手を当てていましたが、突然、彼女のお父さんがもう亡くなっていることが僕にはわかりました。どうしてそんなことが分かったのかはわかりません。そのことにどんな意味があるのかもわかりません。ただ、その他にも意識に上らない情報がたくさん行き来していたように思います。

 

操法が終わったとき、彼女はきちんと座りなおして三つ指を揃えて「ありがとうございました」と言ってくれました。さっきまでとはまったく違う表情をしていたので、何も話す必要はありませんでした。会話はほとんどなかったけれど、「わかってもらえた」と感じたようです。

翌月に来たときは、「実はひどい生理痛があったのに、今回は痛まなかった」と話してくれましたが、そのことさえも表面的に思えるほど彼女の変化は奥底で起きています。

 

このような出来事や経過を医学用語で説明することも理解することもできません。

僕が言えるのは、そこに手が勝手に引かれて、手が触れた時に何かが始まって、あれ以来彼女の方向性が変わったということを事実として確認したということです。

このような操法の前と後の体の変化を科学的に検出できる検査機器はあるのでしょうか。

体は科学が認識しているモデルよりもっとずっと複雑で、そのはたらきは混沌として捉えどころがないものです。

仏教は、世界のすべてを混沌としたものと捉えていて、全体から断片だけを取り出して分析してわかったつもりになることを諌めています。

対して、現代医学はからだを単純なパーツの寄せ集めとしてしか理解していないように感じます。医師と話していると、ひとを電化製品みたいにしか認識できていないことに腹立たしく感じることが多々あります。そこには大事なものが最初から欠落しています。

もちろんそうでない、上手な医師もいます。大きな手術を受けたあとの人に操法をしていて、全身の気の流れが整っているのを感じると、かなりわかっている人にやってもらったんだろうなと思ってこちらの身が引き締まります。

 

僕は以前、自分の足の古傷が痛み出して、それがかなりの激痛で、数週間も眠れず仕事もできなくなった時期があります。そのとき助けてくれたのが高野山のお坊さんでした。

般若心経を唱えることで痛みが消えるということを、そのお坊さんは当たり前のようにやってくれました。これは僕にとってはかなり衝撃的なことでした。

そこで般若心経を信じて出家するとか、整体にお経を取り入れるとかしても良かったのですが、僕はお経に頼らないことを選びました。

お経を唱えていると体がどう変化するのかがわかれば、お経を使わないで同じことができると思いました。これは心の操作でした。僕は今では、あのときの自分の足の痛みを思ったときに再現することができるし、望んだときに終わらせることができます。当たり前ですが、いまの仕事に役立っています。

 

僕は何も信じないで事実だけを見つけるようにしています、というのが整体は宗教ですかという問いに対する答えです。