エッセイ

ネガティブな潜在意識がつくる自衛の怪我

中学生のときに陸上競技で素晴らしい記録を出した女の子がいました。

スポーツに力を入れている私立高校に進学して将来のエースと期待されましたが、その後は周囲の期待に沿える記録はなかなか出せず、体調が整って今度こそはと期待が集まると必ずケガをしてしまいました。そのうちケガは慢性化して、競技を続けることさえ危うくなってきました。

彼女のことをずっと見守ってきた顧問の先生は、「とても実力のある子なので、なんとか足のケガさえ治れば、またいい記録が出せるはずなんです」と言ってうちを訪ねてきました。本当は、そういうことなら他へ行ってもらった方がいいのですが、よく知らなくて運悪くうちを選んでしまったようです。

 

足の捻挫は確かにひどいものでしたが、それよりも彼女をグルグル巻きに包んでいるわだかまりのベールの方が僕には気になってしまいました。こんなものがケガと無関係なわけがないのです。

骨盤の調整をして、息も入るようにして、ついでに捻挫の調整もしましたが、その間ずっと彼女の方から発せられているのは、なにかを納得していない、疑問が行き詰まったような困惑です。

勝負に挑むアスリートには心に疑問があってはいけません。考えないということではなく、目的に疑問を持たないということです。

「早くケガを治して記録を更新しなくては」という焦りだけだったらストレートですが、

こんなに混乱して傷ついている子の心を放っておいてケガだけ調整して走れるようにしたって、またケガをするに決まっているのです。

 

「君はほんとうはどうしたいの」というのがこちらから沸いた疑問でしたが、僕がそれを言葉にして出してしまうと、彼女は「ケガを治して走りたい」と答えたはずです。

それは彼女の偽りのない本心だとは思います。しかし、本音のところでは「ケガが治りたくない」という気持ちがあるはずなのです。

本音というのは自分でも知らないほど深いところにあるものです。

だから操法の間は会話はせずに、足も無視して彼女の心に気持ちを集中することばかりしていました。

「君のしたいようにすればいいのに」と。

 

彼女は、操法を受けている間に僕が捻挫の調整をしているとなんだか見当はずれのことをされているような気がしてきたはずです。「大事なことはそれじゃない」ということがわかったはずです。

ほんの数回の操法でしたが、結局、僕が彼女にやったのは、足のケガを無視して心を見つめるということだけでした。

 

案の定、というよりわかっていたことですが、その後、陸上競技をやめる決心をしたという手紙が彼女から来ました。

 

「私が陸上競技を本格的に始めた理由は、いい記録を出すと両親が喜んでくれたからです。でも、途中で私自身が走りたくて走っているのではないことに気づいたのに、自分で気づかないフリをしていたからケガばかりしてたんですね。みんなの期待を裏切ることが怖かったんです。それがわかったので、もう大丈夫です」と書いてありました。

顧問の先生やご両親がどう思ったかは知りませんが、彼女はとても力のある子でしたから、いまごろは自分のやりたいことを見つけて次に進んでいると思います。