エッセイ

からだの時間

操法を受けに来て、玄関から道場に足を踏み入れた途端、「あれ、いつもと音が違う」と言った人がいました。その日はCDではなくレコードがかかっていたということなのですが、いままでその人が道場で耳にしてきたのはCDばかりだったらしいのです。いつも一緒に操法を受けに来る小学生の息子もレコードが回っているところを初めて見たと言うので、なんだか申し訳ないことをしてしまったような気がしました。

CDでも音楽は楽しめるし、音楽を聴いてもらうために操法をしているわけではないので別に構わないとも思うのですが、僕が一人でリラックスするために音楽を聴こうと思ったら、かけるのは大抵レコードです。手間がかかって色々面倒臭いのにいまだにレコードをかけている理由は、レコードの方が圧倒的に雰囲気がいいからです。

最近、小学生くらいの子供を連れて操法に来るお母さんたちから「子供にレコードを聴かせてあげて欲しい」と頼まれる機会がよくあります。身体が悪いわけでもない我が子を毎月のように愉気を受けさせに連れて来るお母さんたちの関心はやはり「感受性を育むこと」だということがわかります。

操法の時はその場にいる人の顔を見てかける音楽を選んでいますが、手間をかけたことに気づいてもらえるのはやっぱり嬉しいことです。

会話がなく進んだ操法の終わりのときの挨拶で「今日のレコードはとってもよかったです」などと言ってもらえた時には、操法でやった愉気が通じたような気がするものです。

 

僕たちがやっている愉気が通じるかどうかということは、こういった雰囲気の違いに気がつくかどうかのような些細なことです。数ヶ月先や数年先でその人を変えていくような大きな力になるのはこういった些細なことなのです。

愉気をすることで腰の痛みが消えるとか頭痛が取れたとかいった誰にでもわかるはっきりした変化も起こりますが、それは難しいことでもないし大したことでもありません。それはそんなに高度なことではないのです。それよりも愉気をしていくことでその人が半年先に佇まいや雰囲気といった、その人のあり方そのものがどう変わっているかということのほうが重要です。操法をする人の実力が現れるのはこういうことだと思います。それは愉気を受ける人が耳をそばだてるようにして感覚を開いていくことで起こります。

野口整体が何であるかを知っているはずなのに、操法を受けに来る人たちの中には熱心さのあまりか、効果を求めすぎることで大事なものを何も受け取れなくなっている人たちがいます。それはとても残念なことです。

 

以前、大きな会社を経営しているという人が操法を受けにみえました。

その方は道場に入るなり猛烈な勢いで自分の体の不具合な点や、薬を使わない自然な治癒を望んでいることなどを受付で説明し始めました。多分会社でもそうやって部下に指示を出しているのでしょう。合理的に物事を運んでいかにも仕事ができそうな感じでした。いかにして会社の利益を上げるかという目的の会議の席だったらその話し方は効果があるでしょうが、体の声を聞くには少し黙って耳を澄ましてもらわないといけません。順番を待つ間もジッと座っていられない彼の耳には、かかっている音楽も入って来ないことは誰の目にも明らかでした。操法の順番が来て彼は僕に向かって自分のことを話し始めましたが、その声は僕の頭上を通り抜け、僕の声もまた彼の耳には届きませんでした。同じ空間で顔をつき合わせているのに、お互いが別の場所にいるような、そんな感覚を覚えました。時間の流れるスピードが違いすぎると目の前の人も見えなくなるのです。

後日、「体がとても楽になった」と言って彼がまた操法を受けたいとやってきました。そして「お金を2倍払うから今度は時間を倍にしてくれ」と言いました。「身体が気がつくというのはそういうことではないんですよ」と言ってお断りしましたが、いくら話してもその意味を分かってもらえることはありませんでした。

 

その後、彼の奥様がやってきました。「四十肩で腕が上がらないのだけれど、来週ゴルフに行きたいのでそれまでに治してほしい」と言われたので「それは無理ですね」と答えました。

「今まで体のことを無視してきたので、体にはその不満がたまっていて、それがやっと出ようとしているのにそれをまたあなたの都合で封じ込めようとしても無理ですよ。愉気をしたらあなたの場合はますます痛くなると思います。愉気は体の声を聞きけるようになることだから」と話しました。一度出てきた痛みというものは、愉気をすると本人がその意味に気づくまで大きくなっていくものです。しかし、彼女は体の自然な要求に自分のペースを合わせていくことではなく、頭で計画したスケジュールに体を合わせることを求めていたので、僕の話は都合が悪かったようです。

 

ホメオパシーをやっているという女性が操法を受けに来て、「体の調子が変わるまで手をあてているなんて愉気というのは面倒臭いものですね。ホメオパシーだったらレメディを飲ませるだけで、後は何もしなくってもいいんですよ」と言いました。

この女性は、その空いた時間で夕食の買い物に行けるなどと言うのです。僕たちは相手の人を深く理解するために集中する努力はするものですが、それを省いたり短縮することに利点を見つけられるとは思っていなかったので、とても驚きました。だから「ホメオパシーだってそういうものではないだろう。あなたはわかっていない」と思ったのですが、その女性は、自分は認定されたホメオパスだというのです。会社の利益が最優先のビジネスマンだったらそれでもいいかと思いますが、身体の専門家がそう言うのです。合理化至上主義の汚染はここまで来ているのかと思いました。

 

育児中のお母さんが野口整体に興味を持ってその技術を身につけたいと思うのは自然なことと思います。子供を愛していて育児にとても関心を持っているのはどのお母さんも同じですが、僕が気になってしまうのは操法を効率よく合理的に受けようとする方達です。

「育児講座」や「母親講座」といった時間を設けているわけは、手を当てる方法を学んでいただくことで子供の心や身体に起きていることに深く没頭するためで、子供の不具合を早く治してそれに関わる時間を減らすためではありません。最近気になってしまうのは、ぶ厚い手帳を持ち歩いて綿密なスケジュール管理をしてるお母さんたちです。こういうことをするから子供のことがわからなくなるのです。育児において肝要なことは子供の立場になって下からものを見ることができるかということですが、時間を管理しようとしている人は上からものを言うことしかできません。

そういった計算なしで母親が子供に気を集めた時、親子にとっての一瞬は永遠になります。時間というものは気を集めると密度が高まるからです。親子関係に限らず誰かに気を寄せてもらえた時、時間の観念は消えてなくなるのです。それが人と人が感応するということです。

 

 

会社の社長さんをはじめ、ここに紹介した人たちはみんな時間に縛られているということです。

皆、薬浸けの医療を遠ざけて、オーガニックの野菜を食べて、せっせとヨガに励んだりしている人たちですが、全然良くなっていかないのです。それは体が求めている時間の速度と頭で決めている時間の速度にずれがあるからです。

こういう人たちの体にいくら操法をしても、また同じところに戻ってしまうだけなのです。だから僕たちにできることは、操法を待つ間にジッと座ってレコードに耳を傾けてもらうことくらいです。

何もしないで座っている時間を無駄と思わず苦痛でもなくなってきたら、体にとって望ましい時間の流れ方になってきたということです。