エッセイ

人と人のあいだには「気の通り道」がある

道場で操法を受けるために順番を待っている人たちの中に赤ちゃんがいたりすると、その場に居合わせた人たちは意識しなくてもつい、その赤ちゃんに注意が向いてしまうものです。

赤ちゃんというものは、スヤスヤ寝ていようが機嫌が悪くて泣いていようが、そんなこととは関係なく、いつでも大人の注意を自分に集めてようとしています。まだ自分一人では何もできないので、大人の注意が自分に向いているかどうかは赤ちゃんにとっては死活問題であり、最優先事項なのです。

赤ちゃんの中にも、特に強く大人の注意を自分に集められる子がいます。他の人と話しているのに、その子のことが気になってついそちらを見てしまいます。そして、その子のことを見ることが心地いいのです。

そうかと思えば、同じようにしているのになんとなくいつも忘れられてしまう子がいます。「あ、忘れてた。いけない、いけない」と思ってその子のことを見るのですが、なんだか息苦しくなってくるのです。

 この子たちがもう少し大きくなって物心がついてくると、本人たちの心にも違いがはっきり現れてくるようになります。大人を信じている子と信じていない子です。

親から、衣食住のような目に見えることはなんの不足もなく与えられて育ったのに、あまり気を向けてもらえなかった子は、親から捨てられたような「孤児の心」を持っていることが、よくあります。

 

この違いはいったいどこから来るのかといえば、毎日の生活の中で、お母さんからたっぷり気を向けられて過ごしているかということです。

お母さんから、いつも気を向けられている子は、他の大人たちも自分に気を向けてくれることが当たり前だと思っています。それが、人と人の間に「気の通り道」がしっかりできているということです。そういう子には誰でも気が向いてしまいます。

気を向けられないで育った子は、自分が気を向けてもらえることが想像もできません。それが、気の通り道を持っていないということです。人を信じていないし、そもそも道がないので誰も気を向けることができないのです。

 

このことが極端に問題となっている子には、発達障害とか自閉症とか、いろいろな名前で呼ばれています。

自閉症は文字通り、人との気の通り道を完全に遮断している状態です。すでにそうなってしまった子に気を向けても受け付けてくれないことがほとんどです。

しかし、気を向けられることが気持ちいいことだと知ることができたら変わっていくことができます。そうやって変わった子はいますが、それにはまず、お母さんが変わることでした。

 

大人になると、「気の通り道」は、「ある」とか「ない」というような単純なことではありません。

人当たりが良くて明るく振るまっているように見える人でも、人との気のやりとりを拒んでいる人がいます。

生い立ちで暴行や虐待を受けたとか、人に裏切られたとか、様々な出来事が心のつっかえとなって気の通り道をふさいでいます。

人は、親から保護されていた時期を終えると自立するものです。思春期は自立するために苦しむ時期ですが、親への未練を抱えたままだと、大人になって自立することを親に裏切られたと感じていつまでも親を恨んだままだったりします。そういった思春期の自立の失敗で、気の道をつっかえさせたまま苦しんで一生を送っている人は多いのかもしれません。

 

僕たちがいつも操法で観ているのは、その人が持っている「気の通り道」の流れる様子やつっかえ具合です。このことはどんな人を観るときでも同じです。

気の流れにつっかえのある人に気を通そうとするときは、こちらも息がつまるような感じがします。苦しいのですが、それを一気に通すのです。気を通すことは気合いです。

 

完全に受け身である幼児期までは、気の通り道を作ってくれるのは親です。しかし、思春期から先は自分の仕事です。困っている誰かのために困難なことをやり遂げるというような経験が、事態を切り開いてくれます。通じるのです。

 

 

気が通ると、人は、自分の望んだものが向こうから現れるとか、物事が周りの環境と連動して起こるようになります。気が通ることは、周りの人と繋がっていることです。

繋がっていれば、自分に必要な人や、本当に自分を助けてくれる人もわかるようになります。