エッセイ

治療院ではなく、道場を作っていくということ

ここ、高麗川の地に巡り会えるまで道場の場所も転々としてきました。

僕と州子が一番初めに借りた飯能の借家は六畳二間の小さな平屋でした。人がどのくらい来てくれるかどうかもわからなかったし、目の前にいる人を診るだけで精一杯だったので広さには関心がありませんでした。駐車場も一台分だけしかありませんでしたが、最初のこの家は、今と違って駅からも近い便利なところにありました。

 次に移ったのは、仏子の駅から歩いて30分くらいの高台の上にありました。

「こんな不便なところまで人が来てくれるだろうか」という不安もありましたが、「操法を受ける人には少し苦労して来てほしい」と思っていました。

 

そのうち研修生が現れて一緒に稽古をするようになりました。

整体の技術だけでなく、稽古には唄や踊りまでありました。日本の伝統的な唄や踊りを使って体の使い方の稽古をするのが高校の教師時代から州子が長年培ってきたスタイルだったからです。

あの頃はまだ今よりずっとのんびりしていたので、四反(1200坪)の農地を借りて、田んぼと畑を始めました。僕は、整体を始めるまでは百姓をやっていたので、それを新しい地で再現しただけなのですが、機械に頼らずクワと鎌を使って手作業でやっていくやり方は正しい体の使い方のいい稽古になりました。自分の手足を使って大地に触れながら体ごと作物と向き合うことは、なにより自分たちが浄化される気がしました。水を張った泥田に素足で入って一本ずつ稲の苗を植えていると、自分の存在に対する迷いや疑いが消えていくものです。だから、自分のエネルギーの使い方がわからなくてまだうまく生きられない若者や、鬱の主婦や、不登校の子供達などを誘ってよく一緒に作業をしていました。

 

 そうやって関わる人が増えていくと、それまでの道場が手狭になってきました。操法を受ける前後の時間をゆっくり過ごしてもらうためのスペースや、操法以外でかかわる人たちの居場所も必要になってきました。

 現在の道場には、そういった操法以外のことまでを収容できる十分な広さがあります。

研修生が雑巾がけや薪割りをしていたり、操法を受けに来た人が他の誰かの悩みを聞いていたり、どこかの子どもの面倒を見たりしている。道場として機能するというのは、そういった周辺のことに気が満ちて回っていることです。

4回の引越しを重ねて道場は広くなっていきましたが、面白いと感じるのは道場が広くなるたびに来る人も増えてきたということです。講座をしても、いつも容れ物に合わせたちょうどいい人数が集まってくれるのは不思議なことではありますが、こちらの気の集中に釣り合った道場と巡り会うものだということなのでしょう。気の集まったところに人が集まるということです。

 

道場に、人が集まり始めた初期の頃には様々な混乱がありました。

気という目には見えないものを扱っているので、こちらが予想していなかったことを期待して集まってくる人もいたからです。

「私は霊が見える」「天使が見える」という人たちが集まってしまった時期もありましたが、その人たちのほとんどは首のねじれを修正して頭に溜まったエネルギーを抜いてあげるとそういうことは言わなくなりました。

 

健康オタクや整体マニアという人も見かけるようになりました。

健康がブームというのは社会が異常である証です。健康を求める心こそが不健全なのだとこちらは思っていますが、道場に訪れる人は皆さん真剣に模索しているのでこちらも真面目に付き合います。しかし、中には「それは違うよ」と言ってしまう場合もあります。

 

僕は、癒しという言葉が嫌いです。だらしなく感じます。

「癒されたい」と言って集まる人を癒していたら道場は病人ばかりになってしまいます。それは、人に癒されることを望む人たちは病人であり続けるものだからです。

 

「これはひどい体だ。真面目に治療に通ってこないと取り返しのつかないことになりますよ」なんて言って怖がらせてから、「でもここに通えば大丈夫」なんてすがらせてしまったら、この上なく不健康な心を作ってしまったということです。そういう心の状態の人は、いつまでたっても「真面目ないい病人」でいるしかない。

 

だから僕たちは、自立している人にはいくらでも手助けをしますが、依存したがる人には距離を置きます。

ここを間違えて依存させたまま抱え込むと、道場が病人だらけになって、しかも病人であり続けるための手助けをしているようになってしまう。

 

僕たちの道場は、「元気な人ばかりが愉気を受けに来る」という状態を目指しています。

治療院だったら、体の具合の悪いところが良くなれば、「もう来なくていいですよ」と言いますが、ここは道場ですから僕たちがそれを言うことはありません。治療をしているのではないし、起きたことの後始末をしているのではないからです。

 

 

愉気は未来に向けてしています。

体はなるようにしかなっていきません。死ぬ人は死ぬし、生きるべきは生きる。腰痛は治るに決っているし、活き活きと生きているなら体はいつまでも良くなり続ける。生理痛も頭痛もないのが当たり前の体です。

 

しかし社会の現状は深刻で、死ぬべきものを生かすのが現代医療の目標になってしまっているし、子供たちは物心がつく前からやってはいけないこととやらなくてはいけないことに囲まれ、学校に行けば人を疑うことと競争することを教えられ、どちらに進めばいいのかさえもわからない状態なのに、大人達はその速度を緩めればどこかへ落ちてしまうような恐怖に追われています。

学校に行っても会社に行っても、周りを見渡せばみんなそうなっているので分かりづらいのですが、きちんと息が入らず心が落ち着くことのない体は不具合を生じるのが自然の成り行きです。

 

こういう社会で生きていると、「安全であること」が最優先になってしまいます。

しかし、目の前の人に「精一杯生きることより無事に生きることのほうが大切」と言われると返す言葉もありません。僕は、活き活きと生きることより、安全だけれどつまらない人生を選ぶくらいなら豚に食われて死んだほうがマシだと思います。少なくとも、無事に生きるために愉気をしているのではありません。全身全霊で、自分にできる最も良い生き方をするためにしています。

 

しかし、いくら頭で全力で生きようと決心しても、力むばかりでちっとも良い生き方にならないことは多いものです。その時に進む方向を導いてくれるのが愉気です。

愉気を受けて体の余計な力が抜けると自分の内側から自分の声が聞こえます。

「本当はこうしたかった」と。

 

呼吸をするだけでも体の内側に感覚を向ければ快感があり、安心があり、生きているだけで気持ちいいのが本来の姿です。風に吹かれても、水に触れても、花が散るのを見ても感動できる感受性のある体でありたいものです。

 

僕は、病人というのは病院に熱心に通う人のことだと思っていますが、「病気が良くなったら精一杯生きよう」と思っている人がいます。そうなりたいなら今すぐそうすればいい。

「そんなの無理だよ」と思うならまだですね。

「そうか、じゃあ、そうしよう」と思ってしまったらそうなっていきます。

 

僕は人に愉気をする時に「悪いところを治そう」とは考えません。

ただ、「この人は思っていたよりも、本当はずっと自由で、皆から愛されていて、本来どんなに素敵な人か」という想像を巡らします。

イメージが立ち上がるときには、もう気が通っています。