エッセイ

気が通じるということ

操法をしていて感じるのは、気の通りのいい人とそうでない人がいるということです。

打撲をしたり、脳梗塞を起こしている頭など、気が通らないのはそこに問題があるからです。しかし、問題が何もないのに、すぐに気が通る人となかなか通らない人がいます。

何も問題がないのに気が通らないということは、本当は病気などより深刻な話なのです。

 

気が通るというのは、話が通じるということに似ています。

いつも人の話に耳を澄ませている人もいますが、人の話をまるで聞けない人もいます。

人は自分の中に不満がたまっていると人の話は聞けません。自分の中からエネルギーが溢れでている状態では人の話が入ってこないからです。

それから、手首が硬くなると人の話が聞けなくなります。耳は聞こえるのです心に響かないのです。

人から「こうしたらいいよ」とアドバイスされて「ああ、そうか」と改めることができるのは心に柔軟さがある人ですが、手首が硬くなると人の話を聞かない強情さが心に生まれます。

じゃあ、手首を調整すればいいかというとそうでもありません。強情さとは自分を変えようとしない心のことですから、こういう人は自分から操法を受けに来たり自分を変えるために手首を回したりはしないのです。

 

強情な硬い心というのは、常に何かと戦っている状態ですが、そのかたくなな心に接しようとするとき、人は相手の硬さに反応して自分も同じ硬さで対応してしまいます。生理的にどうしても起きてしまうことですが、それは相手と戦ってしまうということです。戦ってしまえば気の流れは拮抗したまま止まってしまいます。気の流れていないまま体だけ緩めることはできません。心が硬い人を捕まえて物理的に体だけ調整して緩めるなんてできないのです。

 

硬い心は、正面からまともにぶつかるとめっぽう手強くてたいてい歯が立ちません。しかし、強情な心はスキだらけです。そして強い要求を隠しています。その方向を読んで心の角度を変えてあげることで手首が緩むのです。だから僕たちは手首の調整には言葉を使います。手首が硬くなると話を聞かなくなるわけですから、それを戻すのに有効なのも言葉なのです。それが気を通すということです。

言葉も正面からぶつかるものは反発を生むだけですが、気の流れをよく見ていると相手に響く言葉が選べるようになります。

強情な家人に整体操法を受けさせたいと思いながら道場に連れてくることができないという相談をよく受けますが、この辺のことを踏まえて工夫してみてください。

道場に連れてくることさえできれば強情な人の体や心を変えることは難しくありません。強情な人ほど心の底では楽になりたいと思っているからです。

 

気が通らない、話が通じないということが人生の途中や後半で起こったことならいろいろと調整や手立てもありますが、人生の最初に親から気を向けられなかったというのは厄介なことです。

人と人との間には、話が通るために必要な、気の通る道というものがあるのですが、生い立ちで親からきちんと気を向けられていなかったのか、この道が出来ていない人がいるのです。人とつながっていないまま孤立して不安を抱えていると、なかなか人を信じることができません。こういう人に愉気をしようとすると、気が通らずにとても苦労します。

逆に、親が過干渉のために気が通らない場合もあります。その場合は一時的に親子関係を切るような愉気をします。一時的でも自由を経験すると適正な関係や距離感がわかるものです。

 

親子の間に気の通る道がしっかりできていれば機敏に反応が起こります。それはたいしたことではありません。我が家の日常で言えば、僕がスパゲッティを茹で始めるれば娘たちは何も言わなくてもキッチンに集まって席に着きます。それは、茹で上がってから席に着いたのではアルデンテにありつけないからだけではなく、こちらがシビアに仕上げようとしているのを感じてくれているからだと思います。気のやりとりとはこの程度のことなのですが、これをつまらないことだと思うか、すごく大事だと思って暮らすかで人生の芳醇さが決定してしまうような気もします。

 

気のやりとりとは、野球のキャッチボールのようなものです。

千本ノックは相手の取りにくい打球を打ちますが、キャッチボールは相手の取りやすい球を投げるのです。最初は相手の投げたボールを自分で捕っているような気がしますが、上手な人とやると自分が何もしなくてもボールがグローブに飛び込んできます。相手が捕らせてくれていることがわかってくると、自分も相手の取りやすいように投げることを工夫するようになります。そして次第に相手と自分との区別がなくなっていきます。相手と自分が一体になった時、ボールは自然な形で二人の間を行き交うようになります。これが気が通じるということです。

 

気を通すことは、何かとつながるということです。

整体操法において、愉気をして気を通すということは何に通じさせることなのでしょうか。

大げさでもなく、その答えは宇宙です。

そして、宇宙には二つあります。ミクロコスモス(人体)とマクロコスモス(大宇宙)です。

体に手を当てたところが窓になって開くと、その窓の内側から外を見ても、外から内側を見ても宇宙が拡がっています。僕たちはその窓からそれぞれの宇宙に向かって息を吐くこともできるし、そこから息を吸うこともできるのです。