最近

最近、うちの「自然健康道場」という屋号を、自分でも少しうるさいかな、と感じています。

始めた当初は、自分たちがやりたいことを明確に伝えられていて、いいなと思っていたのですが、最近は、もう少し幅が広がったというか、そんなに限定しなくてもいいかなと思ってしまうのです。

僕は、整体を始める前は、ヨガをやりながら農業で生計を立てていたのですが、30年前というのは、自然農法という言葉も今ほど知られておらず、周囲から奇異の目で見られたり、嫌がらせを受けたりして、中には自殺してしまった仲間もいました。今の若い人には想像できないと思いますが、ヨガをやっていると「オウムの仲間か」と言われた時代です。

僕の中では、自然農法、ヨガ、整体というものが、原流を一つにするおなじ流れのものなので、整体の看板を掲げる時には、その辺のことを皆さんにも、ぜひ、知ってもらいたいと気負っていたわけです。若かったんですね。毎月のお便りを書くようになったのも、こちらが何を考えて何を大切にしているのかを言いたくてしょうがなかったからです。でも、そのおかげで、来てくれる人たちとのあいだにも、なんとなく共有しているイメージ像というものが出来てきました。

それは、風邪をひいても薬は使わず、料理に手間をかけ、自然素材の衣服や住居を好み、原発には反対で、憲法9条改憲に反対で、経済効率優先の安倍政権には異を唱え、無農薬の野菜を買うか自分で作っているというような姿でした。

それは、僕の理想像だったのかもしれません。そういう人たちを相手にしていると、安心できて楽だったのかもしれません。でも、最近は、「そうでなくてもかまわない」と思うようになってきました。「薬がやめられない」という人にも対応できる余裕が出来てきました。

そして、自分がなにを理想としてきたかということとは別に、この二、三十年の間に自分がなにを選んで、ひとりひとりの人たちに対してどういう態度を取ってきたかということの蓄積が、僕にとっての現実です。

コンサートで原発反対を訴え続けている、ある女性歌手から、「あなたは本当に原発反対なの?」と言われたことがあります。「デモに参加しないし、東京電力に加担しているじゃない?」ということです。僕は、デモには参加しません。自分のエネルギーを怒りに変えることが嫌なんです。怒りに包まれた時、僕が普段考えていることは、みんな姿を消してしまって、自分が望んでいない形に変わってしまいます。この、「本当のところ、自分はどう思っているか」ということを、静かにしっかり守ってはっきりさせていくことのほうが、直接的な抗議行動よりも、世の中を変えたり、新しく作っていく力になるのではないかと思っています。

「東京電力の人が来ても、操法なんかしなければいいのに」と言われてもそうはいきません。2011年は、自分たちの身の回りに(普段、操法を受けに来てくれている人たちのなかに)東京電力の関係者(電柱で作業する人やメーター検針の人など)がこんなにたくさんいたんだということがよくわかった年でした。その人たちが、世間の批判を気にして精神的に傷ついていました。原発の問題は国家構造の問題なのに、現場の人をいじめてどうするんだと思います。

2011年の原発事故の後、福島から避難してきた人たちの体をずいぶん見てきました。家を失い、仕事を失って途方にくれた人たちの体です。それは、2011年以降、今も続いていて、この人たちの体を見ていることが、僕の原発問題です。

中でも、印象的だったのは、事故から三週間後に来てくれた原発職員の方です。この方は、事故後も避難せず、福島第一原発の中央制御室に寝泊まりしていたそうです。体の壊れ方があまりにもひどかったので、僕たちにはそれが放射能の影響なのか、恐怖のためなのか、極度の疲労のためなのかがわかりませんでした。あれから消息がわからず、もう死んでしまったのだろうかと思ったりもしていましたが、最近、退職して元気でいるということがわかってホッとしています。

それから、福島の自分の家が津波で流されて、家族も失っているのに、毎日、職場で原発に対する抗議と怒りの罵声を電話で浴びせられている東京電力の社員という人もいました。

体制とは関係なく、原発事故によって影響を受けた人たちの体に触れて感じたことこそが、僕にとっての現実の原発問題です。

大きな会社にはクレーム処理係という仕事の人がいるようです。

昔、いくら体を調整してもよくならない人がいました。そのときは良くなるのですが、翌週、また、同じようなひどい体で現れるのです。それで、何の仕事をしているのか聞いてみたら雪印乳業のクレーム処理担当でした。雪印集団食中毒事件で世間が騒いでいた頃の話です。

怒りで抗議をしてくる人に共通していることは、自分の主張が正しいと信じていることです。

自分が正しいと思っていないと、人には怒れません。そして相手はまだ何が正しいのかをわかっていなくて、だから、自分がそれを正してあげることで世の中がよくなると信じています。

でも、僕が知ってほしいと思うのは、怒りのエネルギーを人に直接ぶつけると、人の体というのは、意外と簡単に傷ついたり壊れてしまうものだということです。人と人はそれだけ密接にお互いの影響を受けています。

暴力はいけないけれど、言葉では何を言っても体は傷つかないと思っている人が多いと思います。

そういう人には、ぜひ、人の体に触ってみることをお勧めしたいものです。他人とケンカして嫌な思いをすれば首は硬くなるし、悔しい思いを我慢すればみぞおちが固まって息が入らなくなります。特に女性は、理屈で言い争いをすると頭がおかしくなります。

自分の言葉で相手の体がどれだけ壊れてしまうのかがわかるようになると、ふだんの夫婦喧嘩のしかたや言葉の選び方が変わってくるのではないかと思います。うちも、昔は夫婦喧嘩が激しかったけれど、お互いの体がおかしくなるのがわかるので、終わりは相手の体を調整するという、バカみたいなことを繰り返していたのですが、その後始末のほうが面倒臭いので、最近は、あまりケンカしないようになりました。

僕が国会中継を見たりしないのは、あれを見ていると体の具合が悪くなるからです。

自分の中のエネルギーが汚されるのは、本当に嫌なものです。

対立政党の話を聞く耳を持たず、相手よりも強く自分の意見を押し通そうとすることばかりが繰り返されています。お互いに、自分の中の汚いエネルギーを相手に吐きかけて、誰もそれを引き受けようとはしていません。汚れた気のたまった場では、物事は決していい方向に展開しないのに、そんなところで国家の行先を決めている様子は暴力的としか思えません。

それに、採決といっても、議席数で初めから結果が分かっているものに関心が向くはずもありません。それより、もし、対立政党の話に本気で耳を傾ける議員が現れて、「あいつの言っていることのほうが正しいと思う」とか言い出したら、本当の話し合いの場になります。そうすれば、みんなが関心を持つと思います。でも、今の政治のシステムは、そんなことを許さない重い荷物を背負っていて、だから僕は政治には期待していません。

そのかわり、僕たちが生活の中でできることがあります。

相手を言い負かすことではなく、人の話をよく聞くことと、相手の身に起きていることを想像することに自分のエネルギーを使うようにしていくことです。

世の中をよくしたいんだったら、自分で、この世界に自分が接している部分から、息を吹き込めばいいんです。

電車に乗っていたとき、とてももひどい駆け込み乗車をしてきた人がいました。

その車両に乗り合わせていた人たちは、電車が走り出してからも、それがどんなにいけないことなのかを分からせようとして、ずっと、その人を睨みつけていました。僕は、その場の空気があまりに剣呑でいたたまれなくなって、思わず、その駆け込んできた人に、「大丈夫だよ。あんたは悪くないよ」と言ってしまいました。そして、周囲の人たちの、にらんでいる目が優しくなるまで笑っていました。人は正義感で動いているとき、なかなか他人の話は聞いてくれないから、笑っているしかないのです。

僕には、投票に行くより、こういうときのほうがよっぽど自分が社会に参加していると感じます。反原発活動家には、「あんたは何もしていない」と言われるけれど、僕にとっては、これくらいのことが、自分でできるいちばん強い行動です。

それにしても、「どうして、あの人は、あんなことをしたのか」ということを、なぜ、みんなが考えないのかと思います。あれほどひどい駆け込み乗車をする理由は、「家族が事故にあって病院に駆けつけるところだった」とかいうレベルのことがその人に起きていたにきまっているからです。

乗務員さんから「あなたの駆け込み乗車でたくさんのお客さんが迷惑をしました」というお叱りのアナウンスがあっても、その場に居合わせた人たちが「大丈夫よ」と笑ってくれるような、余裕のある世の中になってくれたらと思います。駆け込み乗車を勧めているわけではありませんが、「殺気に満ちた密閉空間で、顔を突き合わせたまま過ごすことには耐えられない」と思う感覚のほうが正常です。それよりは、笑って電車を降りたほうが、そのあとがいい日になるのではないかと思います。

相手の欠点の方が目立って目につくものです。

整体操法でも、相手の体に触れたとき、はじめに目についてしまうのは異常なところです。

そのとき、「ひどい体だな」と思うことしかできなかったら、生活の悪さを指摘して、「こうしなさい」と、言葉で指導しておわりです。でも、そのまま黙って手を当て続けていると、いろいろとその人の生活の状況が見えてきます。

「仕事で行き詰まって悩んでいる」「親の介護で疲れ切ってしまった」「子どものことが心配」「なんで私はこんな性格なんだろ」というような、その人が抱えている問題が表面にはありますが、それらを含んだ毎日の生活が積み重なってできあがってきたその人の物語こそが、その人の体の実態です。

人の体を理解することとは、相手の人生を想像することです。どうしてこういうことになったのかを理解していこうとすることが、気を通すということです。

相手のことが理解できないときに感じるものは、恐怖や警戒心や怒りですが、気が通るということは、それらが消えて、代わりにその人を愛おしいと思う気持ちが現れることです。

相手に対する理解が深まることが無駄だったということは、僕の経験ではありません。

いつでも、足りないのは、人に対する理解です。

無関心なままだったり、理解なしにものごとを進めてしまうことこそが暴力です。


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